最近、この本を読みました。
内澤旬子さんというルポライターの「庭先養豚」実践レポートです。
ペット用のミニブタじゃないですよ。
出荷時の体重100キロを超える、食用のでっかい豚さんです。
著者は「世界屠畜紀行」などの著書がある女性で、世界各地の屠畜現場を取材してきたイラストルポライター。
肉になる前が知りたい、
自分で豚を飼って、つぶして、食べてみたい、、
と思い立ち、千葉の旭市に移住して3匹の子豚を飼いはじめました。
その半年間の体験が、イラストとともに軽快な語り口でつづられています。

頭が良くてかわいい豚
豚は生後半年ほどで100キロ以上の体重になり、食用にされます。
著者は半年間豚とともに暮らし、かわいがって育てた後に、屠畜して食べました。
(ただし屠畜は、地元の食肉公社にお願いしたそうです)
ブタって、懐くんですね。
懐いて、とてもかわいいんだそうです。
性格にも個性があり、イラストを交えた3頭3様の性格描写が面白かった。
犬や猫を飼っている人は一緒に遊んだりすると思いますが、ブタも同じように遊んだりじゃれたりします。
3頭のうち1頭は人間の言葉をある程度理解していたそうですから、少なくとも犬猫並みの知能はありそうですね。
でもさすがは肉用の家畜、多くの時間はひたすら食べて寝てるんだとか。
何でも食べる雑食性で、餌以外でも小屋の壁の板、地面を這う毛虫、空き地に生えた葛の葉っぱ、、
食べられそうなものは何でも口に入れ、むしゃむしゃ食べる様子が描かれていました。
1頭の豚からとれる肉の量は?
豚は3キロの餌を食べて1キロ太ります。
110キロ程度の出荷体重に至るまでに330キロの餌を食べている計算です。
だから餌の確保も大変。
著者が豚を飼うために移住した旭市は、養豚の盛んな地域です。
盛んな理由の主なものに、港が近いことがあるだとか。
家畜の餌はほとんど輸入穀物なので、産地が港の近くだと輸送コストを安くできるんですね。
ブタは通常、100キロ以上に太らせてから出荷されます。
例えば110キロの豚からどれくらいの肉が取れるのか・・(以下引用)
頭と足先を落とし、皮をはぎ、内臓を落とした時点で、およそ75キロ。
骨を取り除き、余分な脂肪と腎臓を取り除いたところで、およそ54キロ。
さらにスジや脂肪、屑肉を取り除き、ほぼ私たちの口に入るような状態にしたものが、精肉。
精肉になるのは、およそ51キロ。
平均値として、このように試算されていました。
体重量から計算すると「肉」として出回るのは半分以下。
この中で、モモ(16キロ)と腕(12キロ)は挽肉にするか、ハムやソーセージなどの加工肉に回されます。
1頭の豚から部位ごとの「肉」として売られるのは、たったの23キロ。
う~ん・・けっこう少ないんですね。
減り続ける養豚農家、増え続ける飼育頭数
ひと昔前まで、農家の庭先で豚を飼うことは珍しくなかったようです。
政府の統計で1961年の豚を飼育している農家は、約90万戸、
同年の飼育頭数は約260万頭、
一戸当たりの飼育頭数は2.9頭でした。
ほんの数頭を軒先で飼って、畑で出た野菜くずや自宅の残飯を餌に育てていたようです。
しかし今では、養豚農家の戸数は激減しています。
その一方で、一戸の農家が飼育する頭数はどんどん増えている。
現在、日本で豚を飼育している農家は7000戸を切ってますが、一戸あたりの飼育頭数は1500頭程度に増えているようです。
大規模畜産の本家はアメリカですが、日本の畜産もこのように年々大規模化している。
その理由は、やはり経営的な問題。
著者が育てた豚を例に市場での売値を試算したところ、1頭当たりの代金は屠殺料などを差っ引くと、なんど2万円以下でした。
(実際はそのときの相場に大きく左右される)
数頭を畑のくず野菜や残飯で育てていた時代と違い、飼料を購入して浄化槽などの設備に多額の費用をかけている現在では、少しでも効率よく太らせなければ採算が合わない。
そのために年々大規模化・効率化が図られているということです。
庭先養豚のむずかしさ
僕は自給自足がしたいので、養豚もシュミレーションしてみました。
でも、、結構ハードル高いです。
個人が庭先で豚を飼うとなると、いくつか考えられる問題があります。
その一つが糞尿、、でっかい動物なので排泄物も大量です。
プロの養豚場では浄化槽など専用の浄化システムを設置するようですが、3頭程度の庭先養豚でそれは無理があります。
昔はオガクズをたくさん敷いた床で飼育し、半年後に豚を出荷したら、糞尿が染み込んで発酵したおがくずをそのまま田畑に撒いて肥料にしたそうです。
著者もその「オガクズ方式」で3頭の豚を飼い、染み出る糞尿を柄杓ですくって浄化槽に流していました。
もし本当に庭先養豚するなら、、まずは糞尿処理の問題がハードルになりそう。
ハエもたくさん集まってくるので、近隣に民家があると理解を得るのが難しそうです。
また、屠畜は法律があって勝手にできないため、育った豚をどこで屠畜し、精肉するかという問題も大きいです。
食べた動物と一緒に生きる感覚
自分で豚を飼って、つぶして、食べてみたい、、
実際にこれを行った著者に、強く共感するものがありました。
自分が育てた動物を食べて、自分の一部になるという体験。
こちらの記事 鶏、食べました に書きましたが、
ぼくも全く同じような感覚を、自分の鶏を食べた時に感じていたんです。
(以下引用)
この十数年、万の単位で屠畜されていく家畜を眺めながら、私は彼らに対して、かわいそうという言葉を使うことを自分に禁じてきた。
倫理でとらえる以前に、地球上の生命体の全てが他の生命体を取りこんで生存を図らねばならないようにできている以上、それはそうであるもの、前提としてとらえるべきだと思ってきた。肉食をやめる、つまり取り込む生命体を選んだところで、何かを殺していること自体に変わりはない。
どこにボーダーを引くかは、人間の暮らす社会の都合次第でいかようにでも変わる。
そこに正義も善悪も真理もない。むしろ肉として食べながら、殺すこと、屠畜することを忌み嫌うように仕向け、時には屠畜どころか食肉全般の仕事に対して差別すら生んでしまう社会のありかたや、宗教、人々の気持ちと向き合い、なぜなのか、なぜなのか、と繰り返し問うてきたのだ。
豚に名前を付けて飼って、思い切り感情移入してみれば、かわいそうと言いたてる気持ちも理解できるかと思った。
けれどもこの感覚は何だろう。
私がかわいがって育てあげ、私が殺し、私が食べた三頭。
その三頭が死後も、消化後も排泄後も、私とともにいるという感覚。私が死ぬまで、私の中にずっと一緒にいてくれる。
こんな奇妙な感覚に襲われるとは、私自身、ほんとうにほんとうに思いもしなかった。
畜産の現状に興味があったり、肉食について深く考えてしまう人にはお勧めの一冊です。
テーマは深いですが、文体は軽快でとても読みやすかったですよ。