自然に還りたい
僕はどういうワケか、自然に還りたい欲求を強く持っていました。
鍼灸師になったり養鶏を始めて食べ物を自給したいと思ったのも、そういう欲求を満たすため。
いつも何となく、生存に不安を感じていたのだと思います。
ところが最近「このままで十分自然」「生きていることが自然」という認識に変わってきました。
いつのまにか現実を肯定的に見るようになり、気持ちにゆとりが出てきた。
もともと「生き方」的な意味合いで始めた養鶏や野菜作りも、今は単に「趣味」という感じ。
仕事(鍼灸)も以前は苦しみながらやってたんですが、今はわりと楽しみながら淡々とやっています。
育児も、とても楽しいですし。
仕事にしろ私生活にしろ、単に好きだからやってる、、という状態になってきました。
少し前までけっこう苦労性だったのですが、ちょっと性格が変わってきたかもしれません。
いえ、性格は変わりませんが、おそらく「病的な症状」が無くなってきたのだと思います。
心と体は表裏一体
僕は3年以上前から「断糖・肉食」的な食生活を続けています。
つまり糖質を控え、肉や卵などの動物性食品を重視する食事スタイルですね。
鶏を飼っていることもあって、特に卵は大量に食べています。
それまでは極端な糖質中心の食生活でした。砂糖漬け、炭水化物付けの。
この食生活の変化によって体調はだいぶ良い方に変わりましたが、もしかしたら一番変わったのは精神面かもしれません。
「肉食すると気性が荒くなる」なんて言う人もいますが、そんな感じはしない。
むしろ穏やかになりましたし、いつもフラットな、淡々とした精神状態が定着してきたと感じています。(※当社比)
ただし、以前より少しタフになった感があるので、それを「怖くなった」と感じる人は、もしかしたらいるかも。
東洋医学では心と体は不可分であり、陰陽の関係であり、表裏一体だと言います。
栄養不足だと当然「欠乏感」を感じますが、身体だけでなく心も、何らかの欠乏感を抱きやすくなるようです。
たぶん僕が抱いていた「自然に還りたい」という気持ちは、この欠乏感の表れだったのでしょう。
不足しているものがあったり体調が悪い時、本能的に「本来の状態(=自然)に還りたい」と思うのかもしれません。
過去を振り返ると、その欲求はいろんな形で出ていた。
いまどきは珍しいことじゃないですが、僕は生まれたときからかなりの栄養不足状態でした。
未熟児で生まれ、子供の頃は喘息やアレルギーで、精神的にもなにやら神経質で不安定な子供だったと記憶しています。
栄養不足が重度だと精神的な症状が出ることは少なくないようですが、子供の頃の僕は、かなりそういう兆候があった。
いえ、幼少期だけでなく、大人になってもそういう兆候をかかえたまま生きてきました。
不安定さは齢とともに落ち着いてきましたが、それは意識の鍛錬によるものだったと思います。(でも時々乱れていました、笑)
社会を否定した子供
僕は小学校の頃、友達と遊ぶより、野山や川で野鳥を観察している方が楽しいような、ちょっと変わった子供でした。
小学校高学年から5年くらい続けたバードウオッチングの影響で、自然観察を好んだ一方、いつの間にか科学とか工業化していく社会に否定的な気持ちを持っていた。
理科系の科目が得意だったのですが、むしろ「科学」が悪い、これが不自然の源だと思うようになり、高校生頃には興味を失ってしまった。
今にしてみれば視野の狭さというか、もう少し何とかならなかったかと、少年の自分をアワレに思うのですが。
でもその頃、いつも体調が悪く家庭環境も悪かったので、世の中に対して多少ひねくれた見方をしていたとしても、やむをえなかったのかもしれません。
家庭環境はもちろんですが、体調や栄養状態も精神に大きく影響します。
実際に「心の病」「性格の異常」と呼ばれるものの中には、単に栄養不足が原因していることがある。
栄養不足が原因の精神の不調は、不足を解消していくことで健全化してくるでしょう。
栄養不足が精神に与える影響は、ふつう考えられているよりもはるかに大きいと思います。
それはこの数年、鍼灸院の臨床を通して体験していることでもあります。
栄養不足の精神兆候
血液検査などできない鍼灸院で患者さんを診るとき、症状や身体観察から栄養状態を判断しますが、メンタル面も大いに参考になります。
栄養が足りないと「独特の精神的兆候」が出やすくなるからです。
それはわかりやすくて、初診の電話対応の中でも、ある程度予想が付きます。
独特の兆候とは、例えば、
神経質、猜疑心、敵対心、批判的な心、恐怖心、恨み、依存心、優柔不断、不安、など。
これらはちょっとした言動に現れるので、すぐにわかりますよね。
直接それを指摘することはないのですが、その人の性格というより「症状」の一部として、総合的な判断の材料にしているわけです。
仮に、本人の体感としての体調が良くなっていても、こういった精神の兆候が強ければ「まだまだ回復が必要」と判断しています。
また、妙に明るい人、不自然に積極的な人も要注意です。
不自然なポジティブさは少しかかわってみると、すぐに折れることが多い。
そもそもメンタル面に出ているような重度の栄養不足の人は、正確な自己観察が出来ないようです。
ちょっと良くなると「治った!!」と思い、通院や改善の努力をやめてしまう。
そしてしばらくすると、また症状がぶり返す。
そんなことが多い。
もちろんすぐに良くならなければ、治療の継続は不可能で、ふらふらとどこかへ行ってしまいます。
例えば重度の鉄不足の改善には何年もかかることがありますが、鉄不足による精神症状も改善にそれだけ時間がかかる。
それを理解してもらうことが、とても大切だと思っています。
このような精神的兆候は栄養不足の他に「頭部や胸部の異常な緊張」も関係しているようですが、それも一部は、生育初期の栄養不足が原因だと考えています。
なぜなら異常な緊張を抱えている人は、生まれたとき未熟児だったとか長期間保育器に入っていたとか、子供の頃から貧血だったという人がとても多いんです。
そして体型や骨格や姿勢の癖に、生育初期の栄養不足が深く刻まれています。
(頭部や胸部の異常緊張には、恐怖体験や虐待のトラウマが関係していることもあるようですが、僕が関わった範囲では少なかった)
栄養不足と批判的な傾向
栄養不足の人って、妙に批判的な人が多いと感じませんか?
栄養不足で体調が悪くなれば正確な認識能力を欠き、不安定で攻撃的な精神状態になってもおかしくないと思います。
不思議と、そのような生理状態では、
世の中を変えたいとか、社会の悪と戦うとか、汚染物質や化学物質をやたらと気にするとか、思想の違う人を攻撃するとか、
そんな心の状態になりやすいようです。
これはその人の性格というより、一種の病気であり「欠乏症」の症状だと考えています。
ブログやSNSで有名な人たちの中にも、このような状態の人が少なからずいるようです。
病的な恐怖やこだわりが、発信の原動力になっているようなケースです。
(心身が健康で、なおかつ精力的に発信・社会活動している人は「本物」だろうと思います)
世の中のネガティブな側面に神経質になりすぎる傾向、大変だ大変だ!!、、となりやすい精神傾向と、栄養不足は大きく関係していると思う。
僕の場合、肉食を薦める発信の内容もありますが、今までネットで変に絡んでくる人は粗食や菜食の人が多かった。
真面目に菜食やってれば必然的に、慢性的なタンパク不足、脂肪酸不足、ビタミン不足、ミネラル不足になりますから、それが精神の不安定さとして出てくる人もいるでしょう。(もちろん安定してる人もいますが)
いちいち文句を言ってきたり長文のメッセージを送りつけてくることには、かなり病的なものを感じる。
はじめはびっくりしましたが、最近は、ああ、病気だな、、と思い、そっと離れることにしています。
焦りから淡々とした気持ちへ
でも、こんなこと書いている僕も、少し前まで似たような傾向をはっきり持っていました。
そもそも何のメリットもないのにFacebookにいろいろ書き始めた原動力は、自分でもよくわからない「このままじゃいけない」という焦りのようなものだった。
今では少し気を付けた使い方をしていますが、初めの頃は、変なことを書いて仕事や人間関係がダメになっても別にいいと思っていた。
何かを発散したかったし、何かをしたかった。
そのころ漠然と「発信力」を持ちたいと思っていたのですが、成り行きでほんの少し発信力が育ってきた今では「あれ?何を発信したかったんだっけ??」と、不思議に思っています(笑)
でも、臨床は理不尽な医療の現実とか、けっこう見えてしまうので、それを受け止めきれなかったのだと思う。
薬漬けでボロボロの患者さんはザラにいますし、解決できればいいのですが、一時的な症状緩和以外には何もできないことも多い。
これは何度経験しても、やはり辛いです。
その重みを抱えきれなくて、なにやら書き散らしていたのが初めの使い方でした。
面白いことにそれが人の興味を引いたのか、書き散らすほどにだんだんフォロワーが増えてきました。
でも、僕は病んでいたな、と思います。
数年前のその頃と比べ、今は淡々とした気持ちで仕事や生活をしています。
ネットに何か書くときも、思い付きのメモであっても、わりと冷静な気持で書き込んでいる。
数年前と今とで大きく変わったことと言えば、やはり食習慣と栄養状態。
実際に数値としての栄養状態も大幅に改善しました。
そして、子供の頃から「失われた自然」を求めて生きてきたのに、いつの間にか「今生きていることが自然」と思えるようになった。
何しろ栄養不足歴30年以上ですから、まだまだ回復の途中だと思っているのですが、栄養状態が改善され健康状態が高まってくるにつれて、心の在り方が変わってきたのは面白い変化です。