江戸時代の平均寿命と食事

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乳幼児死亡率が高かった江戸時代

最近、江戸時代の生活について書かれた本を何冊か読みました。

そのうちの一冊が特に印象的だったので紹介します。

「近世播磨の農民像」という本で、1700年代に生きた播磨国黍田村庄屋『佐七郎(さしちろう)』の生涯について書かれたもの。

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この本は「黍田村文書」という古文書が元の史料になっています。

播磨国は兵庫県南西部にあたる地域ですが、本書に出てくる黍田村の地名は小野市の黍田町として残っています。

この時代天候不順から飢饉が頻発し、それでも厳しく年貢を徴収されていた農民の生活は非常に苦しかった。

江戸時代の平均寿命は現代の半分以下、なかでも乳幼児死亡率が高かったと言われています。

この本の主人公である佐七郎は、庄屋として生涯精力的に働き66歳まで生きましたが、三人の妻(一人は若くして死に一人は離縁)が産んだ1男8女のうち、6人までが幼くして亡くなっています。

以下引用

佐七郎は延享四年(1747年)十二月、二十六歳で加東郡上曽我井村助四郎妹さだ(十七歳)を女房に迎えた。二年後の寛延二年(1749年)に長女そねが生まれたが、同年七月、女房さだは産後の肥立ちが悪くて死んだ。長女そねは三歳の時、名前をれんと改めたが、宝暦二年(1752年)八月、四歳で死んでしまった。

この後も、不幸の多かった佐七郎家の様子が次のように書かれていました。

後妻たきが産んだ娘、たみは三歳で死んだ。(その後たきとは離縁)

佐七郎三十八歳でむかえた三番目の女房は、結婚の翌年、待望の長男佐太郎を産んだが、二歳で死んでしまった。

その後、三女せい、四女もん、五女しづ、六女さか、七女志な、八女ようを次々と産んだが、三女せいは三歳、四女もんは八歳、六女さかは二歳で死んでしまった。

佐七郎は親戚から婿養子を取り、十六歳の五女しづと結婚させた。しづは十九歳で男子佐吉を産んだが、産後の肥立ちが悪く翌年死んでしまう。

残された子供をなんとか乳母を探して育てようとしたが、一歳七か月で死んでしまった。

この時代、乳幼児死亡率が非常に高く、二十歳まで生きられたのは二人に一人程度だった。

つまり、幼いうちに死ぬ子供が非常に多かったんですね。

また、産後の肥立ちが悪くて死んでしまう母親も多かったようです。

これを読んで、子供が次々と死亡し、産後の肥立ちが悪くて産婦が死んでしまうのは『栄養状態の悪さ』が原因していたはずだと思いました。

もちろん衛生状態の悪さ、医療が未発達だったことも大きな要因だと思います。

でも、この時代の庶民は、妊娠出産前後の重要な時期に充分な栄養を取れていないことが多かったんじゃないか。

豊かな家の食事は白米中心

ただし佐七郎家は代々の庄屋で所有する農地は地域でも群を抜いていましたし、親族にも有力者が多く、食べ物が手に入らないということはなかったはず。

小作や使用人を使って広大な田地を所有していましたから、半分近い量を年貢で納めたとしても、家族が食べるための米は十分にあったでしょう。

むしろ、豊かだからこそできた米中心の食事が関係していたんじゃないかと思います。

当時の乳幼児死亡率の高さは、なにも貧しい層だけの話ではなかったようです。

徳川の将軍家や大名の子どもでも、今と比べるとはるかに死亡率が高かった。

当時、米を中心とした経済システムが敷かれていて、豊かな人ほど米を食べることができました。

豊かな人は、米を精米して白米にしたり、貴重な砂糖を使った菓子を食べたりしていたと思います。

ビタミンB1不足によって起こる脚気が国民病でしたが、これは白米ばかり大量に食べる食習慣が原因でした。

でも、それが分かったのはごく最近の話で、栄養学など無かったこの時代、富家の子どもが病弱になる理由は医者でもわからなかったのかもしれません。

食事についての記述

「近世播磨の農民像」の中には、何か所か食事についての記述があります。

日常の食事についてではなく、役人を接待した時の記録でしたが、そこから日常の食生活も想像できそう。

佐七郎が庄屋を勤めた時期の黍田村は度々干ばつに襲われ、安定した水源の確保が重要な課題でした。

村にあるため池は泥が溜まり、貯水量が少なくなっていましたが、村人の力で改修を行うには負担が大きすぎた。

そこで、庄屋佐七郎は陣屋(役所)に繰り返し陳情し、ため池の改修工事や増設を行おうとしていました。

それは村の重要事項だったので、接待に使われた食材や経費の記録が残っているのですね。

例えば、普請の調査にやってきた5人の役人を接待した時の記録は次のようなもの。

「御普請所御見分御賄帳」

一、白米 一斗六升二合
一、みそ 五〇〇目
一、醤油 一升
一、かんぴょう 六〇匁
一、人参 七本
一、つり大根 八本
一、山の芋 三〇〇目
一、香物大根 六本
一、ならずけ 二ふね
一、わけぎ 手に五杯
一、上茶 二〇〇目
一、真鯉 一本

ちなみに、一斗は約18リットル

一升は約1.8リットル

一匁は約3.75g

(味噌の目はどういう単位なのか分りませんでした)

白米の一斗六升二合は、、約29リットルです。

5人の役人は、白米を一升瓶に16本分一晩(夕食と朝食)で食べていたことになりますね。

まさしく米中心の食事です。

また、ここに記された動物性の食材は、鯉(こい)一本のみ。

表向きは肉を食べてはいけなかっただけあって、動物の肉は出てきません。

この池普請は、水不足に悩まされていた黍田村にとって非常に重要な公共事業で、役人の接待に使われた食材は精一杯豪華な食材だったはず。

農民の日常的な食事は、もっともっと粗末だったと思います。

ちなみに真鯉一本の代金が銀四匁と書かれていますが、当時、職人の中では収入の良かった一人前の大工の一日の賃金が銀二匁ですから相当高価な食材ですね。

貧しい庶民はめったに食べることができず、鯉を自分で獲ったとしても生活を助けるために売ったんじゃないかと思います。

食材の値段の記載として、他に、

鯛一枚 銀二匁三分

大ぼら一本 銀二匁五分

白米一升 銀一匁

醤油一升 銀一匁

このように書かれていました。

卵は一個いくらだったんだろう?昔の物価を見るのって、なんか楽しいです。

江戸時代の寿命

日本人の平均寿命が今のように伸びたのは、ごく最近、戦後になったからです。

それまで、江戸時代などの平均寿命は半分以下でした。

ただし、佐七郎が66歳まで生きたように、この時代も長生きする人はいた。

割合としては少ないものの、今のように80代まで生きる人もいたようです。

日本の歴史上でも、長寿の人物は結構いますね。

葛飾北斎89歳、徳川家康73歳、貝原益軒83歳、北条早雲87歳(適当にググって調べたので間違ってるかも)、

つい最近読んだ「無私の日本人」に登場する大田垣連蓮月という尼さんは、85歳まで生きたそうです。

ただし蓮月は、出家前に産んだ5人の子どもを全員、幼くして(2歳から7歳で)次々と亡くしています。

この時代、子どもが死んでしまうことは珍しくなかったんですね。

七五三という風習がありますが、たぶん、子どもが死なずに生き延びたことを祝う切実な行事だったんだと思います。

明治以前の日本には現代のような戸籍制度がなく、産まれた子どもの数をきちんと把握する仕組みもなかった。

「7才までは神の子」などと言われ、幼児を数えない地域もあったんだとか。

なので当時の乳幼児死亡率や平均寿命はわからないのですが、凡そ30歳から40歳の間くらいだったとされています。

明治維新後も、大正時代まで平均寿命は40歳くらいでした。

平均余命の年次推移

ところが戦後、急速に伸びたんですね。

経済成長にともなって寿命はぐんぐん伸び、80歳を越えるようになりました。

経済的に豊かになり生活が楽になったこと、また、衛生状態が良くなり医療が発達したことが原因していると思います。

同時に、食の欧米化が進んで肉、卵、魚、乳製品などの摂取量がそれまでよりずっと増えてことも寿命の延びに大きく関連していると思う。

タンパク質などの基礎的な栄養摂取と老化の進行度合いは、密接に関係していますし、

「介護されたくないなら粗食はやめなさい」~老化とタンパク質の意外な関係~

子どもの発育や出産の安全性、産後の肥立ち(体力の回復)にも栄養状態が良い方がいいに決まってる。

戦後の日本では、栄養状態と衛生環境が良くなり、救急医療の発達によってそれまで助からなかった命も助かるようになった。

そういうことなんでしょうね。

参考文献

「近世播磨の農民像」山田 正雄 著

「無私の日本人」磯田 道史 著